言葉

日常のひと休みに

見失わなければ…

道具にたよりすぎた人は

方法を重視してきた人は

大切なことを失う

正確には失うのではなく見失うのだろう。

そして

次は本当に大切な何かを失う。

 

言葉にたよれば

真実を失う…いや、本心だろうか。

言葉の使い方を重視すれば

程度を失う…いや、本音かもしれない。

 

顔を見て話していれば

その目を見られただろうに。

顔を見ないで話してしまった。

文字だけで話してしまった。

自分の想像の中だけで

決めつけてしまった。

 

現実は

自分の想像しているようにはならない。

現実は、真実は、

怖いものかもしれない。

知りたくないことかもしれない。

知る必要もないのかもしれない。

想像の中には大切なものがたくさんある。

現実の中には想像から生まれたものがある。

想像の中で育てた芽は

現実の中で花を咲かせ

想像の中に種を落とす。

 

鏡にうつる自身の姿、顔を

見ないふりをしてしまうたび、

自分自身の叫びを無視してしまう。

助けてという叫びを…。

それでも

その目は誰かにそれをうったえている。

助けてという叫びは

言葉でも声でもあり

そのどちらでもなく

自身の現実であり真実なのだ。

それは言葉や声だけで表現するものでも伝えるものでもない。

声にしなくても言葉にしなくても

表現でき伝えられるものであるはずなのだ。

それは、

それを受け取る側が

見失ってさえいなければ…

叫ぶ側が

外に出すということを

見失ってさえいなければ…

 

 

 

#叫び#失う#想像#現実#真実#助けて

 

情報社会

情報社会

なぜ、心の情報は必要としないのか。

 

当たり前のように、

自分の持っている情報をもとに話を進める人はたくさんいる。

例えば、

どこかの店員さん、

その商品やサービスを知っていることを前提として話を進めてくる人を多く見かける。

相手に合わせて話を進めるわけではない。

マニュアルなのかもしれない。

でも、そのマニュアルの情報はお客さんにはない。

相手がどんなことを知りたいのか、

そんなことは関係ない。

ただ、自分達にある情報を相手に押しつける。

そうでなければ、

そんなことも知らないのか、とバカにしてくる。

では、逆に聞いてみたい。

誰かがその人生において、知り得た情報や経験をあなたは知っているのか、と。

 

情報が足りないのだ。

心の情報。

相手の立場を想像する。

自分が相手の立場だったら、それは今の自分ではない、相手と同じ知識でそこにいたならということだ。

もちろん、そんなことわかるはずない。

だから、知識と経験で想像するのだ。

もちろん、心の情報と心の経験によってだ。

 

どうして他の情報と同じように、

心の情報は詰め込まないのだろうか。

他の情報を詰め込んで、

自分は多くの情報を持っていると思っているなら、それは自分のシッポを追い回していることと同じことのような気がしてならない。

 

 

 

想像力

世界をひろげたいなら

世界を旅するのではなく、

世界の人を旅するのだ。

隣りにいる人が自分と同じ景色を見ている、同じ景色が見えているとはかぎらない。

同じものにひっかかり、同じ感情を持つとはかぎらない。

人を受け入れないかぎり、自分の見ているものは変わらない。

自分の世界だけにいると、

常に自分が正しいと思い、相手をせめる。

だから、

常に自分が相手より上だと錯覚してしまう。

見ているものが変わらないということは、狭い場所にいて、王様だと錯覚してしまう。違う世界の方が魅力的かもしれないのに。

優劣をつけるのも自分の視点によるものが多い。

それが悪いということではない。

それが絶対ではないということだけだ。

何かを決断するには、自分の視点は必要なことだ。

そうでなければ、常に迷いが生じてしまう。

しかし、それは自分の視点であって、他者の視点ではないということだ。

他者の視点なんてわからない。

その通りだと思う。

それなら、どうしょうもないじゃないか。

ということになってしまう。

しかし、

人には想像力というものがある。

想像するのだ。

もちろん、それでも自分の視点から逃れることはできないだろう。

しかし、

想像することによって、少なくともこれまでの視点とは違った視点になっているはずだ。

否定するのではない。

想像するのだ。

想像するためには

他者を受け入れなければならない。

そうすれば、

他者を肯定できなくとも

自分だけの世界が常に正しいと思わないのではないだろうか。

勝手に、相手が自分を否定していると決めつけなくてすむのではないだろうか。

100%はないかもしれないが、

少なくともそこに交渉などの様々な余地が生まれるのではないだろうか。

変化することは難しいかもしれない。

それは、変わることが悪いことマイナスなことと捉えてしまうからだ、自分の視点の中で。

しかし、少なくとも人は変化し続けている。なぜなら、今日と明日は違う日なのだから。人は日々、その環境に合わせて変化しているのだ。

ただ、意識しているかいないかの違いだけで。

 

 

たくさんはいらない

たったひとりでも味方がいてくれたら、

人は救われる。

生きて行く力になる。

そんなふうに思ったり感じたりしたことはないだろうか。

たくさんの上辺だけの平穏より

たったひとりの温かさに癒やされたことはないだろうか。

嫌われたくないのかな?

好かれたいんじゃないのかな?

たったひとりの誰かに気づかされたことはないのかな?

たったひとりの味方がいてくれたら…

いてくれたら…

でも、もしかしたら

そのたったひとりの誰かに自分がなっているのかもしれないよ。

いてくれたらじゃなくて

その味方は、誰かの誰かはあなたかもしれない。

きっと人は誰かの本当の味方になれる。

本当に目を背けずに本当を見たならば。

本当の味方がきっとあなたを見つけてくれる。あなたが誰かを見つけたように。

 

どちらが先か

どちらが先か…

それが大きな意味を持つのは、どんな時だろう?

あなたが先に…

よく聞く言葉だ、お先にどうぞではない。

あなたが先に…でしょ。

本当に先に何かをしたのはどっちだろう。

誰かに責任をおわせ自分を正当化する。

誰もが経験があることかもしれない。

どちらが先かなんてわからないことを考えるより、そうなってしまったことの方が、目を向けるべきことのような気がしてならない。

人がすれ違うとかいうことの始まり、誤解とか、偏見とか、差別とか、元々自分の中にそういうのがあって、相手にも同じようにそういうものがあって、そういうのをなくすことは難しい。

自分を守ること

相手をゆるすこと

同時にできたら、それが1番なのかもしれない。

できないことを知ることが、

なりたい自分になるための一歩のような気がしてならない。