言葉

日常のひと休みに

善意と悪意

 善意を悪意にとられることは、想像以上に多くある。とられると書いたのはとる側はそれに気づけないから。

 善悪の価値観はそれぞれだ。だから仕方ないのかもしれない。

 善意も悪意もその人の中になければ気づけない。同じ行為であっても、受け取る側によって善意にも悪意にも変わる。

 その人の中にないものは、

見えない

聞こえない

感じないのである。

 では、どうすればよいのだろうか。

 結局のところ

自らの中でしか解決できない。

自分が変わればいいということではない。

自分が変わっても、相手にないものが、あるものになるわけではない。

 自分の中で、どう受け入れるのか、受け入れないのかという問題なのだ。

 ただ、これには落とし穴がある。

自分の中で相手を決定してしまうことは、差別や偏見になってしまう可能性があるということだ。

 人は、そう決定し、思い込んでしまうとなかなかそれを変えられない。

 では、永遠に答えがでないのか、ということになる。結論から言ったらそうだろう。答えを見つけるなら、永遠に答えはでない。しかし、答えを自分で決めたなら、答えは出るのだとおもう。

 

 

 人の見ている世界は同じようで同じではない。そこには様々な要素があるからだ。

 心豊かな人にはその世界が見え、そうでない人には別の世界が見えている。

 人は心のあり様で世界を見ているのだ。

たくさんの価値観を持つ人はたくさんの世界を、1つの価値観しか持たない人は1つの世界を、もちろん多い少ないで優劣がどうこうという話ではない。その世界がどんな世界であるのかだとおもう。

 そして人はその世界を自分なりのカタチで表現できる生き物だ。それを否定するしないは、もちろんその人の自由だ。

でも、自分にないもの全てを否定する世界はとても悲しい世界におもう。